青嗣

 

 

「河野さん、お電話入ってます。外線1番です」

 

 礼を言って取った電話は、弟の朱李からだった。

 

「なんだお前か、一体どうしたんだ?……え?

 ―――――――なんだってぇ!?

 

 

 シーン――――

 

 

 思わず出した大声に同僚たちが驚いて彼を見ていた。

 

「す……すみません」

 

 周りに謝罪してから、また受話器に向き直る。

 

「それでどんなことが…………ああ、…………ああ、そうか。……………………いや待て、そこへは行くな。すぐ出るからまた連絡する」

 

 いつも柔和な顔をしている彼とは違う気配を感じて、隣にいた同僚は声も掛けられなかった。

 同僚たちが一同に想像できたことは“緊急事態”という熟語のみ。

 

「課長、すみません、妹が事故に巻き込まれたようなので、早退させてください!」

 

 いつになく緊迫した有無を言わせぬ勢いで申し立てる青嗣に、上司は思わずたじろぎ

 

「それは大変だ。すぐ帰ってやりなさい」と言うだけで精一杯だった。

 

「お先に失礼します」と彼が退室していった後、知らず一同は大きく息を吐いた。

 

 

 

 ◇ 

 

 

 

 職場を飛び出した青嗣の前に人影が立ちふさがった。

 

「環子ちゃん! 悪いけど急いでいるんだ、またね」

 

 彼女の脇を通り過ぎようとした青嗣は、次の言葉に脚を止めた。

 

「黒恵の居場所なら知ってるわよ」

 

「え……!?」

 

「弟に連絡してみたら?」

 

 するつもりだったことを知っているかのような環子の言葉。

 連れ立つような格好で青嗣は再び歩き、いぶかしみながら朱李に電話しようとスマホ画面を見た時、ショートメールが受信されていたことに気づいた。だが、それを無視して電話をかける。

 

「俺だ。黒恵の居所は…………ああ、なるほど。…………○○○区の駅に来てくれ。そこなら中間地点だろう」

 

 通話をきった後、しばし青嗣は考え込んでから環子に尋ねた。

 

「ショートメールを送ったのは君か?」

 

 くすりと、どこか皮肉げに微笑するだけで、彼女はそれに答えない。言ったのは別のこと。

 

「どうも分からないのよね。どうやって《《あの》》黒恵を拉致できたのか。力ずくでは無理でしょう? 何か方法があったのよ。だからこれは忠告。あなた方も用心した方がいいわ」

 

「……用心はしていたんだよ、これでも。最近何かと物騒だからね。でも君は……どうして黒恵が誘拐されたのを知っているんだい?」

 

 大体にして、黒恵が拉致されてから恐らく一時間強の間に、環子はどうやって犯人を追跡して居場所を突き止め、ここに現れたのか。それが可能な距離ではない。

 

「黒恵がいかにも胡散臭げな車に乗ってるのを見たのよ。つい跡を付けちゃったわ」

 

 くすくすと笑う。どこか自嘲するように。

 

 環子には直球では返事を得られないと悟ると、別の質問を投げかけた。

 

「内藤というのはどんな人物か知ってるかい?」

 

 笑いを収めた環子は、真摯な表情で青嗣を見上げる。

 長身の青嗣と環子では身長差が頭一つ分あるのだ。

 

「財務省の役人で、元・外務大臣と癒着しているという噂の人物」

 

「汚職事件の! あの元・大臣は自殺したって新聞に載っていたな。その他にも秘書が失踪したとか、事故にあったとか……」

 

 言っているうちに、青嗣はこれが無関係ではないと思い始めた。

 

 そうだ、数々の自殺や事故は不自然に関係者が連続していたが、報道はさらりとしたもので、すぐ後に大きな事故があってマスコミはそちらを大々的にとりあげたので、その後どうなったのか分からなくなった。

 

 加熱しやすく覚めやすい、人の心理をうまく利用されている気がして不審に思っていたのだ。

 いま他人に訊けば、「そんなこともあったなぁ」で終わるだろう。

 

 その内藤という男は、自分たちに力を貸して欲しいというのだ。身の危険を感じてのことなのかもしれないが、胡散臭いことこの上ない。

 内藤とその周辺の者たちに面識はないのだから。

 

 

 ――誰から俺たちの事を聞いたんだ?

 

 

 ふと、まだ自分を見上げている環子と目が合った。

 不思議な色をたたえているその瞳を見ていると、何故かそわそわと落ち着かなくなる。

 

 すっと眼をそらし、俯いて環子が囁く。

 

「黒恵は無事に帰すから、あなたたちは来ないで……といっても無理でしょうね」

 

「え?」

 

 聞き返す青嗣を置き去りに、大きく二歩飛び跳ねてくるりと振り返る。

 

「護衛がごろごろしていたから、十二分に気をつけて行ってらっしゃい!」

 

 振り切るように明るく言って、そのまま環子は走り去った。

 

 青嗣は何か言おうと口を開きかけ、そのまま結局何も言えず、約束の駅へと足を速めた。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 指定された倉庫街か、内藤邸かの二者択一。

 少しだけ悩むように目を閉じた青嗣が決断した結果は――

 

「どこから入りましょうか」

 

「お宅訪問は玄関からだよね」

 

 次男坊の問いかけに答えたのは、高揚した笑顔の三男坊。

 

 ここは内藤邸。

 大正ロマンあふれる外観の和洋折衷の屋敷を眺め、青嗣は肯定するように頷き返した。

 これからひと暴れすることになって、少々傷めてしまうことを予想し、青嗣は少し惜しく思う。

 

 きっちり年齢順に並んでいる兄弟。その背後を、物陰から窺う視線がある。

 

「まだ見張ってますね」

 

 軽く息を吐きつぶやく朱李に、「ほうっておけ」と青嗣の回答は短い。

 追跡者が内藤一派なら、思わせぶりに誘いをかけておいて、ちょろちょろと様子を窺うような小心者だということで底が知れる。違う組織の者であっても、今は相手にしている場合ではない。

 

 それに――環子の忠告がひっかかっている。

 

 

 ――黒恵はどうやって拉致された?

 

 

 河野兄弟四人は常人ではない。

 普通の人間にはない能力を有している。それは異能とされる力と、身体的力。黒恵もそうだ。

 

 黒恵は最近まで男として育てられていたが、本来の性別は女。

 

 生まれたばかりの頃、虚弱で生死の境をさまよう事が度々あり、それを案じた祖母が、夫の故郷の風習を取り入れ男として育てよう、そう提案した。

 

 根拠のない習わしに従うのは若干抵抗があったが、事実、黒恵はその後病気一つせず健康に育った。今では自分の性別を忘れ、ケンカ好きの男前に成長している。

 

 そんな妹も、幼かった頃は床に臥すと、神がかりな様子を見せたりしていた。

 

 

 ――そういえば、元気になってから一回もないな。

 

 

 ラチもないことを思い出して、青嗣は苦笑を浮かべる。

 

「兄さん?」

 

「いや、攫った連中も苦労したんじゃないかなってね」

 

 大の男でも、一人では黒恵をおとなしくさせることは無理だろう。数人で取り押さえたのか、それとも……

 

「クロちゃんをおとなしくさせる“魔法”を知っているのかなー」

 

 揶揄的なことを言う真白に、朱李はしかめ面をしたが、青嗣はまたしても環子の言葉を思い出し、歩みを止める。

 

 環子にも黒恵をおとなしく拉致出来る“魔法”が分からなかった。だから――

 

「十二分に気をつけて……か」

 

「なんですか、それ」

 

 怪訝な顔で長兄を窺う朱李に、青嗣は神妙な目を向けた。

 

「俺たちにも“魔法”は有効かもしれないってことさ」

 

「……魔法……ねぇ」

 

「ショートメールの送り主は環子ちゃんだろう」

 

「…………そうですか」

 

 一瞬ぎくりとした朱李は、やはりそうかとすぐに頷いた。

 

「忠告も受けた。俺たちのことを承知の上で対策を練っている相手なら、用心に用心を重ねとかないと」

 

「で、彼女は?」

 

「役所を出たところで会ったんだけど、すぐ別れたよ」

 

 青嗣は環子に賭けてみた。

 黒恵の居所は内藤邸で間違いないだろう。だが、それ自体が罠という可能性も捨てきれない。

 

 意味深なことを告げて去った環子。

 彼女の行動の基盤は分からないままだ。

 

 

 

 環子はある日、黒恵のクラスに転校して来た。

 

 まもなく黒恵と仲良くなった彼女が、只者ではないことをたまたま知った。その後何度か顔を会わせているが、どうにも性格を掴みきれない。

 

 

 そもそも出会いは本当に偶然だったのだろうか――

 

 

 疑い出せばキリがない。

 朱李は独自に接近して調べているが、成果が上がる前に惹かれてしまっているようだった。

 

 そろりと同じほどの長身の弟を一瞥する。

 気が高ぶっているようだ。その証拠に肌はより一層白く、唇が紅く染まっている。

 

 

 ――ミイラ取りがミイラになったって、自覚あるんだろうか、こいつ。

 

 

 それでもまあ、環子をほうっておけない気持ちは分かる。

 どこか危なっかしい雰囲気があり、つい手を差し伸べたくなるのだ。

 

 

 もし、ここで環子と会ったなら、彼女はどちら側に立つだろうか。