環子(1)

 

 

 日付が変わろうとしている深夜。

 

 

 総工費何億円か掛けただろう豪邸の、小心と虚栄心を表すかのようなやたら高い塀に囲まれて、その屋敷の主人は今、窮地に立たされていた。

 

 彼以外の家人は寝静まり、息づかいだけが奇妙にはっきり本人の耳を打つ。

 卑小な肉に埋もれた小さな目を限界まで見開き、しきりに辺りをぎょろぎょろと窺う。

 

 彼の書斎は、見栄だけで使われることは無かったかのような、政治経済、法律の書籍で書棚が埋め尽くされ、その高価な材質の机や絨毯に、彼の脂汗が滴り落ちてすっかり台無しにしていた。

 なぜなら、震える手でしっかりと握り締められている銃口を、自分の口腔に押し込めていたから。下方から脳天に向けて。

 

 肉の厚い口腔内でもまだ少し隙間があるのか、がちがちと歯と拳銃がぶつかりあっている。

 それでも彼は拳銃を離さない。

 

 

 くすくすくす――

 

 

 小さく軽やかな笑い声の主を、彼はぎょろりと見た。

 血走った目には哀願するような色が浮かんでいるが、見られた方は動じない。

 

「あがが……だずぇで……」

 

 聞き苦しいうなり声に、笑い声の主は片眉を上げる。

 

「全くね、今更でしょ。あなた、“おいた”が過ぎたのよ」

 

 唇の端だけきゅっと吊り上げ、皮肉な笑みを浮かべる少女は、今まさに自決しようとしている男をこれ以上ないほど冷ややかに見ていた。

 悪趣味極まりない。死に行くものを引き止めるどころか、さっさとしろと言わんばかりに。

 

 ――いや。

 

 彼は自殺する者ではない。これから“殺される”のだ。

 誰に?

 

「わたしに銃を向けたのが良くなかったわね。そうしたらもうちょっと穏便な死に方をさせてあげたのに」

 

 くすくす――

 少女は嗤う。

 

 暗い部屋の中、黒い薄手のニットにこれまた黒い細身のパンツ、ゴム底の黒いブーツの脚は、宙に浮いていた。

 絨毯の上5センチほどの距離を空け空中に止まり、まるでそこに透明の椅子でもあるかのように腰掛ける格好で、少女は浮いているのだった。

 

 ボーン……

 

 エントランスホールにあった、アンティークの大きな柱時計が午前0時を告げ始めた。

 

「じゃあね、バイ」

 

 次の鐘の音と同時に銃声がこだました。

 紛れもなく、男は自らの手によって生涯を終える。

 一瞬後、少女もそこから姿を消した。

 誰もかれも動く者はいない。

 

 哀れな男は、翌朝までその亡骸を発見されることはなかった。

 

  

 

 ◇

 

 

 

 きっと自分からは屍臭がするだろう。

 

 彼女は自分が行っていることを全て承知している。そしてそれを厭わしいとさえ思っている。だが……。

 

 

 ――朝刊には間に合わないだろうから、夕刊の見出しは「汚職事件の元厚生労働大臣・自殺」……かな。

 

 

 いや、後日“病死”と発表されるかもしれない。

 “おばば様”――政財界などに多大な影響力を持つ“女媧《じょか》”に見放された哀れな男の死を、誰も惜しまないだろう。

 それ相応のことを彼はしてきた。だからこその“制裁”だ。

 

 “制裁”を実行するのは自分。

 誰が言ったものか“竜樹《たつき》の死神”と呼ばれていることも彼女は知っていた。

 

 相手の行動を反転させる異能の“力”が、獲物を死へと導く。

 

 人が死んでも、もう何の感情も浮かばない。

 どこかのネジが外れてしまった欠陥人間に成りおおせたのだと、口の端に自嘲の笑みを浮かべる。

 

 

 ――果たしてわたしは人間?

 

 

 自主的にではなくても、度々人を殺めに行く事に、もはや何の疑問も持たなくなった。

 

 

 ――人の命なんて軽いものよ。

 

 

 いいように“おばば様”に利用され、紙屑のように捨てられていく人々を多く見すぎたせいで、彼女の心は麻痺している。

 

 今、彼女の心を占めるのは、今晩の寝床をどう確保するか、ただそれだけだった。

 

 

 

 ◇

 

 

 

 環子(たまこ)がそのクラブハウスに立ち寄ったのは、ほんの気まぐれだった。

 

 羽織っていたコートを座席に投げかけ、一人グラスを傾けていると、自覚のない獲物たちが話しかけてきた。

 

「ね~、キミ一人? こんな所でつまんなくない?」

 

 三人連れのほどほどの見栄えの青年たちが、環子の許しも得ず勝手に左右の席につく。

 

 

 くすり――。

 

 

「ちょうど暇だったの。ねぇ、お兄さんたちの誰か一人、付き合ってくれない?」

 

 その言葉に厭らしい笑みを浮かべて、三人の青年は互いに顔を見合わせる。

 

「一人なんていわずに、みんなで行こうよ。楽しいよ~」

 

 そうくると思っていたので、環子は三人に順繰り視線を向け、とある一人に定めた。

 

「あなたがいいな」

 

 そう言って、その男の胸に手を当てる。

 迫られた当人はどぎまぎしている。何せ、環子はそんじょそこらでは見かけたことが無いほどの美少女だったから。

 

「そ……そうだなぁ、そうしよっか」

 

 ころりと方針を変え、顔を赤らめて同意する男に、残された二人は一瞬絶句し、次いで裏切りに怒り出したが、男はもはや聞いていなかった。

 

「こいつら無視して、さぁ、行こうか」

 

 早速席を立ち、環子の肩を抱き寄せる。

 無視された仲間が色めきたち、同士だったはずの男に掴みかかった。

 

 ――が、何者かがその手をさえぎった。

 

 無造作に成人男性二人の腕をひねり上げ、環子たちを冷ややかに見つめる者は、クラブハウスの制服を着ていた。

 

「お客様、店内での乱闘は他のお客様に迷惑です」

 

 冷淡な微笑を向けられ、三人組は怒り出すどころか、逆にその青年に一瞬見とれた。

 

 

 ――彼があまりに美しかったから。

 

 

 男たちが間抜け面をさらしている間に、青年が四人を店外に連れ出す。

 そこでようやく我に返った三人組は「こ……この野郎!!」とセオリー通りに殴りかかったが、2秒と経たずに全滅した。

 ほんのちょっと青年が後頭部を手刀ではたいただけで気絶してしまったのである。

 

 倒れ伏した男たちに目も向けず、苦虫を噛み潰したような顔で環子は美貌の青年を睨む。

 

「――あなたがいるんだと分かっていたら来なかったのに」

 

「それはそれは」

 

 青年は肩をすくめる。気障な仕草が似合うだけに腹が立つ。

 

「僕がここでバイトを始めてから半年は経つんですけどね。調査不足じゃないですか?」

 

 整いすぎた美貌にふさわしい冷ややかな視線と声に、環子の機嫌は悪くなる一方だ。

 

「どうして邪魔したのよ! ……またねぐらを探さないといけないじゃない」

 

 後半はぶつぶつと独り言のように言ったのだが、彼にはちゃんと聞こえていた。

 

「――もう僕はバイト上がる時間なんです。だから待ってて下さい」

 

「どうして待たなきゃならないのよ!」

 

 ぷいとそっぽを向いた環子の顔を、美青年は両手で優しく挟んで正面を向けさせ、それは美しい笑みを浮かべた。

 

「い・い・か・ら! 待ってて下さいね!!」

 

 強く言い、環子の手を掴んで、従業員休憩室に強引に連れて行った。

 

 ぶすっとした環子を置いて、先ほどの顛末を店長に報告しに行った彼は、すぐに取って返す。目を放した隙に、環子が消えていなくなることを恐れたかのように。

 

 環子自身逃げたかったのだが、こんな何時人目に付くか分からない場所での空間移動はリスクが高いので避けたのだ。