青嗣

「傲乃さん、お電話入ってます。外線1番です」

 礼を言って取った電話は、弟の朱李からだった。

「なんだお前か、一体どうしたんだ?……え? ―――――――なんだってぇ!?

 

 シーン――――

 

 思わず出した大声に同僚たちが驚いて彼を見ていた。

「す……すみません」

 周りに謝罪してから、また受話器に向き直る。

「それでどんなことが…………ああ、…………ああ、そうか。……………………いや待て、そこへは行くな。すぐ出るからまた連絡する」

 いつも柔和な顔をしている彼とは違う気配を感じて、隣にいた同僚は声も掛けられなかった。

 同僚たちが一同に想像できたことは“緊急事態”という熟語のみ。

「課長、すみません、妹が事故に巻き込まれたようなので、早退させてください!」

 いつになく緊迫した有無を言わせぬ勢いで申し立てる青嗣に、上司は思わずたじろぎ

「それは大変だ。すぐ帰ってやりなさい」と言うだけで精一杯だった。

「お先に失礼します」と彼が退室していった後、知らず一同は大きく息を吐いた。

 

 

+++++

 

 

 職場を飛び出した青嗣の前に人影が立ちふさがった。

「環子ちゃん! 悪いけど急いでいるんだ、またね」

 彼女の脇を通り過ぎようとした青嗣は、次の言葉に脚を止めた。

「黒恵の居場所なら知ってるわよ」

「え……!?」

「“弟”に連絡してみたら?」

 するつもりだったことを知っているかのような環子の言葉。

 連れ立つような格好で青嗣は再び歩き、いぶかしみながら朱李に電話する。

「俺だ。黒恵の居所は…………ああ、なるほど。…………○○○区の駅に来てくれ。そこなら中間地点だろう」

 通話をきった後、しばし青嗣は考え込んでから環子に尋ねた。

「ファックスを送ったのは君か?」

 くすりと、どこか皮肉げに微笑するだけで、彼女はそれに答えない。言ったのは別のこと。

「どうも分からないのよね。どうやって“あの”黒恵を拉致できたのか。力ずくでは無理でしょう? 何か方法があったのよ。だからこれは忠告。あなた方も用心した方がいいわ」

「……用心はしていたんだよ、これでも。最近何かと物騒だからね。でも君は……どうして黒恵が誘拐されたのを知っているんだい?」

 大体にして、黒恵が拉致されてから恐らく1時間強の間に、環子はどうやって犯人を追跡して居場所を突き止め、ここに現れたのか。それが可能な距離ではない。

「黒恵がいかにも胡散臭げな車に乗ってるのを見たのよ。つい跡を付けちゃったわ」

 くすくすと笑う。どこか自嘲するように。

 環子には直球では返事を得られないと悟ると、別の質問を投げかけた。

「内藤というのはどんな人物か知ってるかい?」

 笑いを収めた環子は、真摯な表情で青嗣を見上げる。

 長身の青嗣と環子では身長差が頭一つ分あるのだ。

「財務省の役人で、元・外務大臣と癒着しているという噂の人物」

「汚職事件の! あの元・大臣は自殺したって新聞に載っていたな。その他にも秘書が失踪したとか、事故にあったとか……」

 言っているうちに、青嗣はこれが無関係ではないと思い始めた。

 そうだ、数々の自殺や事故は不自然に関係者が連続していたが、報道はさらりとしたもので、すぐ後に大きな事故があってマスコミはそちらを大々的にとりあげたので、その後どうなったのか分からなくなった。

 加熱しやすく覚めやすい、人の心理をうまく利用されている気がして不審に思っていたのだ。

 いま他人に訊けば、「そんなこともあったなぁ」で終わるだろう。

 その内藤という男は、自分たちに力を貸して欲しいというのだ。身の危険を感じてのことなのかもしれないが、胡散臭いことこの上ない。

 内藤とその周辺の者たちに面識はないのだから。

 

 ――誰から俺たちの事を聞いたんだ?

 

 ふと、まだ自分を見上げている環子と目が合った。

 不思議な色をたたえているその瞳を見ていると、何故かそわそわと落ち着かなくなる。

 すっと眼をそらし、俯いて環子が囁く。

「黒恵は無事に帰すから、あなたたちは来ないで……といっても無理でしょうね」

「え?」

 聞き返す青嗣を置き去りに、大きく二歩飛び跳ねてくるりと振り返る。

「護衛がごろごろしていたから、十二分に気をつけて行ってらっしゃい!」

 振り切るように明るく言って、そのまま環子は走り去った。

 青嗣は何か言おうと口を開きかけ、そのまま結局何も言えず、約束の駅へと足を速めた。